きままな読書会
2008-04-10T11:35:27+09:00
kimamatsumo
《ロワジール館別館》の離れです。
Excite Blog
ずいぶん古いのが出てきた。
http://kimamatsum.exblog.jp/6624441/
2007-03-19T22:33:00+09:00
2008-04-10T11:35:27+09:00
2007-03-19T22:33:04+09:00
kimamatsumo
レジュメ/ノート
「3月まとめ」なんてタイトルがついていた。
ちょうど8年後に日の目を見ることに。
前年の10月からはじめたばかりで、まだ6回目。
Teresa de Lauretisの"Sexual Indifference and Lesbian Reprisentationを読んでますね。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
読書会(第6回)1999/3/28
1. 147ページ3行目~ページの終りまで
初めの"The latter issue"とは、直前の「セックスとジェンダーを二つの異なる社会的実践の領域として分けて考えるべきかという問題」です。前章からこの前の段落にかけては、ジェンダー化されたセクシュアリティとは何かという問いのもと、ジェンダーから逃れるために、レズビアン作家たちが、あるいは月並みのエロティックな表現(女[というジェンダー]に特有のものと見なされている)を避け、あるいは、女にそもそも同一化せず男のジェンダーを全面的に採用する、といった例が検討されてきました。ここで取り上げられる対照的な二つの立場は、それらと微妙にずれつつ重なるもので、ルービンはセクシュアリティのジェンダー化を回避して性別を考慮に入れないセクシュアリティを取り扱おうとし、一方、マッキノンは、すべてのセクシュアリティはジェンダー化されているのだからその外側の領域など存在しない、と主張しているわけです。
〈訳文の検討〉
(1)1行目:これだと、「ポルノグラフィ論争」が「ポルノグラフィに反対する女たちとS/Mレズビアンによって唱えられた」と読めてしまいますが、ここは、「ポルノグラフィに反対する女たち」と「S/Mレズビアン」がポルノグラフィについて正反対の立場を取り、それをめぐって人々の意見が真っ二つに割れたために、ポルノグラフィ問題が理論的重要課題[アジェンダ]になった、ということですね。
6行目以降、"unapologetic heterosexuals"、"movement standards of purity"といった言葉はルービンからの引用ですが、後者の purityはルービンの論文の文脈から見て「純潔」、前者は「大義名分で自分を正当化しない異性愛者」くらいでしょうか。"Rubin nonethless believes that a theory and politics specific to sexuality must be develop apart from the theory of the opression、that is feminism."という文で、"that is"は「すなわち」なので、フェミニズムはthe theory of the opressionであってセクシュアリティの理論とは別のものだ、とルービンは言っているわけです。試訳:「セックスの問題に関してはフェミニストの中にも幾分(十分とは言えないまでも)多様な意見があることを認め、また、「セックス賛成派」フェミニスト、「古典的ラディカル・フェミニズム」の擁護者、「大義名分で自分を正 当化しない異性愛者」を、「純潔という運動の規範」に従わない者として賞賛しつつも、ルービンは、「セクシュアリティに特有の理論とポリティクス」は、ジェンダーに基づく抑圧についての理論、すなわちフェミニズムとは、別個に発展させられるべきだと考えている。
(2)"her earlier article also had to do with gender and sexuality"、下線部は「関係がある」。 つまりここでは、ルービンが、自分が以前『女性の交易』で主題とした非産業化社会の部族組織においてはセクシュアリティは親族関係の網の目にとらわれているけれど、現在の西洋社会ではセクシュアリティはジェンダーと分けて考えるべきだと述べているのに対し、ラウレティスは、いや、当時ルービンらは象徴的意味作用の理論を展開していて、それがフェミ二ズムの理論を発展させたのだけれど、ジェンダーに関連づけられた欲望というここで問題になっている概念は、まさにこの理論が作り上げたものではないか、と言っているわけです。試訳:「…彼女の以前の論文は、それでもやはり西洋産業社会におけるジェンダーやセクシュアリティに関係があったのであり、その社会では、実際、ルービンやその他のフェミニストが、象徴的意味作用の理論——この理論が、象徴的構築物としてのジェンダー(文化人類学からきた語)に関係のある欲望(精神分析からきた語)というまさにその概念を練り上げることになった——に基づく批評(フェミニズム理論の発展になくてはならなかった批評)を繰り広げていたのである。
(3)フーコーの言葉、"the nature of impressions"の"nature"は、そのの"quality”に近い意味(ほとんど言いかえ)ではないでしょうか。
(4)"uncanny homosexual double"の"double"とは「分身」のことでは。試訳:「それゆえ、 『セックスを考える』では、女性のエロティシズムの特性やレズビアンのエロティシズムの特性は、もはや問われるべき問題ではなく、そこでは「ホモセクシュアル」という語が女性を指 すのにも男性を指すのにも使われ(かくして、その不気味な分身である男[オモ]-セクシュアルへと 避け難く移行するかに思われ)……
(5)"the dominant gendered form of sexuality in a society where gender oppresses women through sex"という文は、ひとまとまりに訳した方が意味が明瞭になると思います。 試訳:もしもヘテロセクシュアリティが、ジェンダーがセックスを通して女性を抑圧する社会において主流をなすジェンダー化されたセクシュアリティの形態であるとするならば、セクシュアリティとヘテロセクシュアリティは本質的に同じものである。このことはホモセクシュアリティを消し去るものではなく、たんに、そうした形のセクシュアリティ[ホモセクシュアリティ] が完全にジェンダー化されているということを意味している。
(6)"stark"は「全くの」、"common"は「共通した」と解するのが適切では。二人が逃れたいと 思っているのは「二重性」ではなく、hommo-sexuality。試訳:彼女たちの完全な対立にも かかわらず(あるいは共通の単純化ゆえかもしれないが)、ルービンもマッキノンも、私がホモセクシュアリティと男[オモ]-セクシュアリティという二つの言葉で分けようとしてきた、両義的であることの緊張状態や、記号論的二重性を崩壊させてしまい、それゆえ、彼女らが疑いもなく、そこから逃れたいと二人とも—— 一人はジェンダーを否定することで、もう一人はジェンダーを絶対的なものとして主張することで ——切望している当のものである、性的(無)差異のパラドックスにかえって陥ってしまうのだと私は思う。実はラドクリフ・ホールの場合も別の意味で、ニュートンの示唆に満ちた読解にもかかわらず、そうであった。
〈参考〉
『セックスを考える』には既訳があり、引用符なしのところも含めてラウレティスがずいぶんそこから引いているので、前回該当部分をコピーして配りましたが、その後フーコーの引用文を“Thinking sex”の原文に当たってみたところ、版が違うのかと思うほど違っているのを発見(結局、渡辺守章訳『性の歴史』の該当部分をそのまま引いてあるのだとわかりました)。その前後、ここでのラウレティスの議論を理解するのに役立つと思われるので、以下に訳出を試みました。
セクシュアリティについてのフェミニズムの立場のうち、右、左、中道のいずれが優勢になるにしても、そのように豊かな議論が行なわれたということは、これからもセックスについての興味深い思考の源泉にフェミニズム運動がなるであろうことの証しである。しかしながら、私は、フェミニズムがセクシュアリティ理論にとって特権的な場である、あるいはそうあるべきだという考えには意義を唱えたい。フェミニズムとは、ジェンダーに基づく抑圧に関する理論である。そのことがフェミニズムをして自動的に、セックスに基づく抑圧に関する理論にすると考えるのは、ジェンダーとエロティックな欲望とのあいだの区別をしそこなうことだ。英語の「セックス」には、二つの非常に異なる意味がある。それは「フィーメイル・セックス」、「メイル・セックス」というように、ジェンダーやジェンダー・アイデンティティをあらわす。しかし、セックスはまた、性行動、性的欲望、性交、性的昂揚をも指す 「セックスする」というように。この意味論的混同は、セクシュアリティとは性交に還元することができるものだ、セクシュアリティとは女性と男性の間に働く機能である、という、文化に基づく考え方を反映している。ジェンダーとセクシュアリティのこのような文化的な混同が、ジェンダーの理論からセクシュアリティの理論を直接引き出せるという考えのもとになっている。
以前に書いた『女の交易』では、私はセックス/ジェンダー・システムという概念を、「それによって社会が、生物学的なセクシュアリティを人間の活動の産物に変える一連の配置」として使った。さらに、「私たちが知っているようなセックス/ジェンダー・アイデンティティ、性的な欲望やファンタジー、子供時代という概念とは、それ自体が社会的産物である」と主張した。あそこでは、情欲と快楽とを分けないで、同じように重要な社会過程の様式として扱ったのである。
『女の交易』は、親族を基礎にした社会システムについての文献がきっかけになったものだった。当時の私には、ジェンダーと欲望はそうした社会的形成物にシステマティックに織り込まれていると見えたのだ。こうしたことは、部族組織におけるセックスとジェンダー間の関係としては適切な評価かもしれない。しかし、西洋の産業化社会におけるセクシュアリティの適切な公式ではありえない。フーコーが指摘するように、セクシュアリティというシステムはより以前の時代の親族形態から発生したのであり、このシステムは重要な自律性を獲得しているのだ。
とりわけ十八世紀以降、西洋社会は一つの新しい装置を作り出して配備した。それは、以前の 装置に重ねられながら、後者を完全に排除することなく、その重要性を減らすのに役立ったの である。私が言っているのは「セクシュアリティ」という装置のことだ……最初のもの(親族 関係)に関係するのは、パートナーたちと制定された法との結びつきである。一方、二番目の もの[セクシュアリティ]は、身体の官能的感覚や、快楽の質や、感覚の特性に関係するもの だ。[ミシェル・フーコー『セクシュアリティの歴史』]
こうした性的なシステムの発達は、ジェンダーの諸関係という文脈の中で起きた事柄である。近代的な性のイデオロギーには、情欲は男の分野で、純潔は女の分野だというものがある。ポルノグラフィと倒錯が男の分野だと見なされたのは偶然ではない。セックス産業において、女性は大部分の生産と消費から排除されており、原則的にはワーカーとして加わることだけを許されてきたのである。「倒錯」に加わるためには、女性は、移動や収入源や性的自由に対する、厳しい制限を乗り越えねばならなかった。ジェンダーは性的なシステムの働きに影響し、性的なシステムはジェンダーに特徴づけられたあらわれかたをしている。しかし、セックスとジェンダーは、関係があるとはいえ、同じものではない。それは社会的実践の二つの異なる領域の、基盤をかたちづくっているものなのだ。
『女性の交易』当時の見方とは対照的に、現在の私は、ジェンダーとセクシュアリティを分けることは、それらが別々の社会的存在であることをより正確に表わすために重要であると主張している。これは、セクシュアリティをジェンダーから派生したものとして扱う、現代のフェミニズム思想の大方に異を唱えるものである。たとえば、レズビアン・フェミニズムのイデオロギーは、レズビアンの抑圧をもっぱら女性の抑圧という点から分析してきた。しかしレズビアンは、変態や倒錯者としてもまた、ジェンダーの階層化ではなく性的な階層化の操作によって、抑圧されてきたのである。それについて考えることは多くのレズビアンにとって辛いことではあるが、レズビアンは、ゲイ男性、サドマゾヒスト、服装倒錯者、売春婦と多くの社会的特徴を共有し、同様の社会的制裁を受けてきたのである。
(Lesbian and Gay Studies Reader, p.32-33)
〈蛇足〉
「セクシュアリティ」という言葉について私がはじめて目にした(二十代の前半ぐらいか)定義らしきものは、確か『ハイト・リポート』の訳者のものだったのですが、それには、セクシュアリティとはたんにセックスにとどまらず、「男が男であり、女が女であるすべてのこと」だとありました 言わんとしたところはわかります。「性」という言葉から大多数の人が性交しか思い浮かべないであろう状況の中で、性とはそれ以上の「人間的な」広がりを持つものなのだと啓蒙するための言葉です。今なら、これではジェンダーの中にセクシュアリティが完全に含まれ、しかも、並列された男/女の相互補完性が全く疑われていない、と批判することもできますが、当時は(ジェンダーという言葉は全く知られていませんでした)自分の感じている違和感をうまく言いあらわすことはできず、ただ、こう思っただけでした。「セクシュアリティ」がここに説明されたようなものであるとすれば、「女のセクシュアリティ」と呼ばれるものは私とは無縁のものだろう(生物学的には女であっても)。「女が女であるすべてのこと」のほとんどは私には関係ないし、かといって「男であること」の中に自分を見出せるわけでもない。
しかし私は、「女の」という限定を取った「セクシュアリティ」までが自分に関係のないことだとは思わなかったのです。「すべてのセクシュアリティはジェンダー化されている」とは全く信じられなかったので(女のセクシュアリティが生殖という目的のために組織化されているなどという話はたわごととしか思えなかったけれど、“the sensation of the body, the quality of plesures, the nature of impressions”は信じることができたので)、自分の「セクシュアリティ」はこうした分類とは全く別の場所にあるのだと思っただけでした。
もう一つ思い出したこと、きわめつけのセクシストであった吉行淳之介は、男並みになろうとしている女たちを揶揄して、女がいくら頑張っても絶対なれないものがある、ホモだよ、と発言していました。彼もまたマッキノンと同じく、ホモセクシュアリティは完全にジェンダー化されていると信じていたわけです。
これはもう完全に蛇足ですが、塚本邦雄の短歌に、「レオナルド・ダ・ヴィンチと性を同じうし」という上の句がありましたっけ。万能の天才と同性である(=女ではない)というだけでの、ゆえなき(ゆえはあるのですが)優越感の宣言。もし、この「性」がたんにジェンダーではなく、セクシュアリティも含むとしたら、同性愛者レオナルドと自分は同じだとクローゼット・ゲイ塚本が告白していることにもなりますが(そして実際そうしているのだと私は思いますが)、これは別に珍しいことではなく、作品においてはいくらでもアウトにするが実生活ではけっしてそのことに言及しない日本の優れたゲイ作家たちと同様だし、塚本自身、つねに従っているやり方でもあります。何にせよ、ここでも、セックス/ジェンダー/セクシュアリティ(男/男/男)の連続性は少しも疑われていません。]]>
2007年
http://kimamatsum.exblog.jp/6372796/
2007-01-22T16:52:30+09:00
2007-01-22T16:52:30+09:00
2007-01-22T16:52:30+09:00
kimamatsumo
読書会の歴史
1月20日(土)18:00〜21:00
文京区男女平等センター 参加者6人+1人(飲み人)]]>
読書会やります
http://kimamatsum.exblog.jp/6304229/
2007-01-07T22:31:00+09:00
2007-01-22T16:46:47+09:00
2007-01-07T22:23:32+09:00
kimamatsumo
最新の読書会
【場 所】文京区男女平等センター 和室2
(文京区本郷 4-8-3 本郷真砂アーバンハイツ1階)
【参加費】300円以下
【テーマ】茂木健一郎ってどうよ〜『クオリア降臨』を中心に]]>
『デリダ論』(G. C. スピヴァク)82-122頁
http://kimamatsum.exblog.jp/5074681/
2006-06-21T15:00:00+09:00
2006-06-22T17:55:58+09:00
2006-06-21T15:00:50+09:00
kimamatsumo
レジュメ/ノート
82
フッサール
A 意識についての超越論的現象学 → 心的内容~世界に属するデータ~現実の現象
B 意識についての純粋心理学 → 現実
しかしAB間には「正確な並行がある」
83
デリダにとってのフロイトとは――
「世界の起源[A]と世界=内=存在[B]との間の超越論的差異を抹消する精神の作用」を「そうした差異を生産しつつ、同時にこれを抹消する」精神の作用を指し示す。
存在論/存在を解読する読解方法
精神の正常性の記述や異常なものの治療の処方箋を自ら利用して、いかなるテクストでも解読するある種の方法を教える科学
pshychは記号と同様、根源的な他者性、完全に他なるものに住まわれている。フロイトはこの根源的他者性に、無意識という形而上学的名称を与える。
無意識的なるもの――外界の現実と同じように未知であり、外界が感覚によっては不完全にしか捉えられないのと同じように、意識のデータによっては不完全にしか捉えられない、本来的な心的現実[B]
84
自らのうちに永続的な他者性の痕跡を持っているもの―-pshycheの構造―-記号の構造=エクリチュール
記号は、起源(対象)と目的(意味)のあいだを架橋する同質的単位でなはい。
それは、決してそれ自身としては現れない別の記号の痕跡に、つねに住まわれている。
85
「エクリチュール」とは、痕跡につねにすでに住まわれた構造の名である。
(エクリチュールの経験的な概念――文字――よりも広い概念。)
この拡大は、フロイトが、心的内容と心的機構[心的装置]の両方を記述するのにエクリチュールの隠喩を用いたことでなしとげられている。
「マジック・メモについての覚書」(1925)※
フロイトが到達した、エクリチュールの空間としての精神[pshyche]の記述
ここでは書記法はいささかもパロールの支配を蒙らず、パロールに対して外的でもなければその後に来るものでもない。[逆に言えば、通常、エクリチュールは、パロールに支配され、パロールの外にあり、パロールの後に来ると思われている。生きた話しことばと、それを記録したにすぎない死んだ文字の対立]
86
けれども、ここでいうエクリチュールとは、言語を表す単なる隠喩なのでもない。夢内容(そして精神の全記憶作業)は、音声記号ではなく象形文字で綴られている。
また、「マジック・メモ」では、現実の筆記用玩具を丹念に論じていて、パロールの位置をめぐる問題はまったく出てこない。
pshycheには統一されたエージェンシーはない。
マジックメモの構造 心的装置の構造?
---------------------------------------------------(表層)
a セルロイド(カバーシート) 知覚-意識システム
b パラフィン紙 刺激保護
c 蝋盤 書き跡が残る 無意識的なもの pshyche 精神 記憶-痕跡 持続的な痕跡
心的装置(外界から知覚を受け取る装置)の作用は、それ自体としてはpshycheには認知不能。
外界から刺激を「受け取る」のはこの装置であり、pshycheは知覚刺激から「保護」されている。
87
われわれが「知覚」と考えているものは、つねにすでに書き込みである。
刺激が持続的な「記憶-痕跡」――書き込み――につながるとき、意識的な知覚はない。
意識は知覚システムにおいて、持続的な痕跡の代わりに、周期的に、不規則に発生する。
時間の連続性に関するわれわれの感覚は、知覚機構の非連続な周期性の関数であり、また実のところ、その機構の作業以上のものを知覚しているわけではない。
「知覚ー意識システムの機能におけるこの不連続性が、時間概念の根本ではないかと考えられる」
88
知覚とは「起源的書き込み」であり、時間とは「直観の形式」ではなくpshycheというマジック・メモに付けられた「エクリチュールのエコノミー」のしるしである。
一般にエクリチュールという隠喩が使われるときは、文字通りの/普通の意味でのエクリチール――死んだ文字、死の担い手――と対比される。
89
人間は現前という観念によって自らを慰める必要があるので、現実の書き手の不在を意味する「文字通りの」意味でのエクリチュールは、隠喩としてのエクリチュールが「受諾」されるときでさえ拒 絶されねばならない。
現前の住処そのものである知覚する自己も、不在とエクリチュールによって形成されている。
事物の現前を消しながらもそれが読めるように残すという身ぶりを、デリダは「エクリチュール」と名づける。
形而上学の囲いからわれわれを解き放つと同時に、その内部でわれわれを保護する身ぶり。
90
pshyche=トポロジックなフィクション
91
自己の至上性の解体。精神というテクストの構造化においてその自己が構成されるさま。
subjectivityという効果の問題。効果がどんなふうにテクストの構造によって産出されるか。
92
エコノミー=エネルギーの隠喩。「エロスと死の本能という二つの根源的な本能が融合したり対立したりして作用する」
エコノミーは対立物の和解ではない。分離の維持、差異によって構成される同一性がエコノミーである。
93
「思考作業もまた、エロス的な衝動力を昇華することによって獲得される」
94
心的装置に持続的痕跡を付けると、直接的知覚の可能性が排除される→遅延のメカニズム
95
「現前」の構造は差異と遅延によって構成されている。「現前」を「知覚」する主体もまた同じように構成されるている。
96
知覚と持続的痕跡の分離は、思考それ自体を知覚の差延にする。有機体と、無機的状態の惰性の間の共犯関係は、生を死の差延にする。無意識の痕跡をわれわれが知覚するのは「出来事のはるかのち」である。
98
人は差延によって構成されること、「自己」なるものは「自己」が完全には認識できないことによって構成されていること。
忘却は「われわれ自身」が知らぬ間に我々の「自己」を積極的に形成している。われわれは書き込みに身を委ねている。書いているときエクリチュールにつねにすでに身を委ねていることを知っている。
99
デリダのテクストも他のすべてのテクストと同じく、解釈に開かれているということが示されている。
100
彼は自分の理論を完全に応用することに成功していない。なぜなら成功した戯れは永久に延期されているからだ。
101
フロイトとテクスト性。
言語テクストは露呈と同じくらい隠蔽によっても構成されている。隠蔽はそれ自体露呈でありその逆も真である。
103
デリダは、精神分析的方法によって「心理=伝記的なシニフィエ」へと赴きはしない。
104 すべてのテクスト性を、実在的証拠を突き止めるための、たまたまあった一つの資料として見てしまう態度から解放された精神分析。
107
痕跡の抹消についての学であるグラマトロジーが、現前についての学、形而上学を範に しているとされ、同性的現前としての存在と神についての学存在-神学と呼ばれ、根源的先行性のしるしとしての痕跡が誤って起源と呼ばれている。
述べている事柄ではなく、成し遂げられている事柄。
109
解体すること、読解を産出すること、テクストのテクスト性を開くこと。
テクストの「臍」を見出す方法。
110
テクストの意味の体系に照らして意味が決定不能な瞬間
テクストが自らの価値体系を侵犯するように見える瞬間
テクストのグラマとロジー的構造の暴露
テキストの起源と目的は、言語一般に委ねられている。
111
時間=純粋な自己触発のモデル
何かイデア的なもの――存在それ自体――が、対象と関係することなく産出される。
時間とは心的装置の非連続的な知覚である。
※マジック・メモは、蝋あるいは樹脂製の濃褐色の小板で、紙製の枠がついている。小板の上には、紙枠の上辺にしっかりととりつけられた透明の薄葉が重ねられている。ただし、下辺は貼りつけられておらず、自由にめくることができる。この薄葉こそ、この小さな装置でもっとも興味のある部品であろう。この薄葉はさらに二重の層からなっており、上下は張り合わされているが、左右は離れていて、適宜引きはがすことができる。上層は透明なセルロイド膜であり、下層は薄蝋紙であるが、ごく薄いので、これも透明である。装置が使用されてないときには、薄蝋紙の裏面が蝋の小板の上に軽く接触している。マジック・メモを使用する際は、小板を覆った薄葉層のセルロイド膜上から記載をおこなう。ただし、鉛筆やチョークの必要はない。この場合の書記行為は、何らかの物質が受容面に干渉しておこなわれるものではないからである。それはいわば、粘土板や蝋板に文字を書きつけた古代人たちの方法への回帰だと言えよう。何か鋭利な先端をもったもので表面を引っ掻くようにするのだ。その結果書字面が陥没し、それが≪書かれたもの≫となってあらわれるのである。ただし、マジック・メモの場合、印刻は直接受容面におこなわれるものではなく、その上を覆っている薄葉の介在をえておこなわれる。つまり、なにかとがったものが触れた場所で薄蝋紙の裏面が蝋小板に押しつけられ、その跡が、それまで一面に灰白色であったセルロイド膜上に、黒い書字となって可視化されるのである。記載を破棄したければ、二重薄葉層の固定されていない下辺をもって、蝋上板から軽く引きはがしてやればよい。書字が可視化したのは、印刻のあった場所で薄蝋紙と蝋小板が密着しているからであり、このようにして両者の接触を断つと、あらためて両者を重ね合わせても先の密着状態が再生されることはない。そのときマジック・メモは、いかなる書字もとどめず、新たに来る記載を受け容れる準備がととのっているのである。]]>
“ボールド”CMをめぐる言説
http://kimamatsum.exblog.jp/4925598/
2006-06-05T21:10:00+09:00
2007-01-07T22:16:59+09:00
2006-06-05T21:06:12+09:00
kimamatsumo
レジュメ/ノート
知らなかった……。『新・国民の油断』にも取り上げられてたんですねえ、このCM。
西尾幹二先生の解釈は「フェミ系」ですね。というか、フェミの陰謀説ですよ!
d.hatena.ne.jp/Backlash/20060613/p1
(西尾)P&Gの柔軟剤入り「ホールド」は、全部、荒くれ男のような男性が洗濯している設定でしょう。女性も子供も出てきません☆。これは役割分担を決めてはいけないということから来るのでしょう。
西尾先生、取り越し苦労ですう。画面をよく見て下さい。荒くれ男じゃないですヨ、総ウケは——じゃなかった、洗濯を一手に引きウケているのは。男だけの集団でもなお、洗濯を担当するのは、男らしい男ではなく「女性的」存在なのです。(先日、下の記事を読んだという人と私が話しているのを聞いた「過激な」人からの御指摘 。あのCMはだからまだ生ぬるいそうです。)
大丈夫、西尾先生! ホールド[ママ]のCMは、性別(セックスでなくジェンダー)役割分担の強化に役立っているのです!
☆この指摘は「保育所篇」以前に行われたのかもしれませんし、そうでなくても先生は見逃していらっしゃるのかもしれませんが、ちゃんと子供は出てきます。ただしそこは、(読書会でも指摘しましたが)ナント男の子しかいない保育所です。
−−−−−−−−−−−−−以下元記事−−−−−−−−−−−−−−−−
洗剤“ボールド”のCM——一度も見たことのない人にも、その内容は以下の記述によっていくばくかは伝わるだろう——に私が注目したとき、すでにウェブ上にはこれをめぐるあまたの言説がタケノコのように乱立していた——。
〈ヴィジュアル版〉読書会 「私の見つけた○○表象」と題して持ち寄ったうちの一つ。
【持参人 kimamatsumo、録画に成功せずテクストのみ。紙媒体であったのと、当時は容易に検索できたのとで、URLは保存せず。今回、検索で確認できたものにはURLをあらためて付した。】
--------------------------------------------------------------------
きままな読書会〈ヴィジュアル版〉のお知らせ
ジェンダー、セクシュアリティ、フェミニズム関係の本を読んでいる「きま
まな読書会」です。今月は少々趣向を変えて、本ではなく、映画、CM等
のビデオを持ち寄って、隠された(あるいはあからさまな)映像表現を「読
む」ことにしました。「私の見つけた○○表象」といったところです(○○は
別に伏せ字ではありません。好きに入れてみて下さい)。
あなたの「見つけた」ものをぜひお持ち下さい。絵や写真でも結構です。
もちろん、手ぶらでもいらしていただいてかまいません。
お問合せはdokushokai@hotmaik.com へ。
【日 時】2004年3月20日(土)18:00〜21:00
【場 所】文京区男女平等センター 研修室C
(文京区本郷 4-8-3 本郷真砂アーバンハイツ1階)
【参 加 費】場所代(300円程度)
--------------------------------------------------------------------
“ボールド”CMをめぐる言説
【フェミ系 その1】
●2002年11月号●
好印象を持ったテレビCM
ボールド(P&G)
柔軟剤入り洗剤のCMの第2弾。前作はラグビーの選手という役で出てきた男の
人たちが、今度は建設現場で働く人で出てくる。
前作で、柔軟剤入り洗剤で洗ったユニフォームを着ていた男性は今回は洗濯係。
前作では実際に洗濯をしているシーンは出てこなかったが、今回ははっきり男の
人が洗濯をしていることがわかる。
汗と埃にまみれて働く男の人が何人も出てきて、女性や子どもは出てこない。
こういうのを見ると、洗剤のCMではなぜ、母親と幼い子どもたちが洗い立ての洗
濯物ににっこりというパターンが多いのか、改めて疑問に思う。
【フェミ系 その2】
斬新なコマーシャル
今私がとても気に入っているテレビコマーシャルがあります。それは、P&Gの
「ボールド」という洗剤のCMです。このコマーシャルのどこが斬新かというと
洗剤のコマーシャルなのに出演しているのが全員男の人だということです。主役
の「洗濯係」の青年を演じるのは、「百獣戦隊ガオレンジャー(01年7月〜
02年3月、テレビ朝日)」のガオシルバー役として出演していたタマテツこと玉
山鉄二。その他の男性全員で洗濯物の白さと柔らかさを語り合う(?)。
これまで、私が知っているだけで、三つのバージョンがあります。最初はラグ
ビー編。次に工事現場編。そして現在放送中の農場編。CMのなかでの会話は男
臭い農場では想像つかないようものです。真っ白い洗濯物が飛んで農場の男性に
顔にかかる。「すみません」と後輩の玉山。「この洗濯物柔らかいな。柔らかく
なる物使ったのか。」と先輩。
「洗剤だけで柔らかくなるんですよ。あれなら」と指さす視線の先にあるのが洗
濯機の上に乗っている洗剤のボールド。(うろ覚えなので、セリフには自信があ
りませんが。)
今までに男性が出演した洗剤のコマーシャルというとすぐに頭に浮かぶのが小
堺一機が出ていたライオンのアクロン。妻から「これ洗っておいてね。」とウー
ルの洗濯物の山を手渡され、夫の小堺が「トホホ」とみじめな表情をする。今ま
での常識だと男生と家事というと、なんだかこういうみじめさがともなうもので
した。
実際洗濯という物が生活の一部という男の人は数多くいるはずです。単身赴任
のお父さん。一人暮らしの男性。家事を分担して洗濯をする旦那様。どうせやら
なければならないものなら、アクロンのCMの様に「男が家事をするのはみじめ」
と思ってやるより「きれいになって、気持ちいい」とボールドのCMの様に前向
きな気分でやった方がいいと思う。こういう意味では、ボールドのコマーシャル
は男性が持つ家事に関する考え方を一新する物ではないのかと思います。
2003年05月24日 08時26分40秒
http://www.geocities.jp/misakidsjp/geodiary.html#bold
【フェミ系 その3】
「ボールド」のCMが好きです。
洗剤のCMなのに
男しか出てこないのが画期的。
今までの洗剤のCMというと、
子供が汚してお母さん困っちゃう
みたいなものばかりで、
ホントうんざりしてました。
この世の中、洗濯するのは、
お母さんだけじゃないのにね・・。
2003.6.26
【フェミ系 その4】
セクハラ研究序説 (第21号)
判例・事例から 〜 男女の役割
今回は、ジェンダーについてです。
ジェンダーとは、難しくいえば、「社会の制度や規範にかたどられた男女の態
度・行動・意識などの差異」のことで、社会的・文化的な性差のことをいいま
す。
つまり、女は女らしく、男は男らしくしたほうが、世の中はうまくいく。
男の子はたくましく、女の子はおしとやかに育ってほしい。
女性より出世が遅れる男性は、男として恥ずかしい。
などのような考え方は本来の性による差別ではなく、社会的文化的に作られた
性の差別をしているのです。
このような考え方を土台としてセクハラが生まれます。
日経新聞にて記載されていた記事を参考にして考えてみます。
〈記事の概要〉男女の役割 CMで変化
1—インスタントラーメン編
「ただいま、おなかペコペコ」
「お帰り。何か作ろうか?」
最初のセリフは夫ではなく、仕事から帰宅した妻の言葉だ。すると夫の保坂尚
輝さんは妻の高岡早紀さんのためにインスタントラーメンを作り始める。「野
菜とんなきゃね」といいながら野菜を刻む。それを夫の言葉にすることで新し
い夫婦像を感じさせている。
2—洗剤編
また洗剤のCMはこれまでお母さんが主役とされていた。そこに男性だけが登場
するのが、P&Gの「ボールド」のCM。
「その洗濯物、すげー白いな」と驚く。
「洗剤変えたんですよ」
「柔らかい!柔軟剤も使ったのか?」
「いや、洗剤だけっすよ」
このようなCMが登場する背景として、女性の社会進出に伴う、男女の価値観の
変化が大きい。だが、そればかりでもない。「80年代の現場は男社会だったが、
90年代後半になって、企業などで経験をつんだ女性が増え、現場での発言力を
持つようになった」と分析。
(中略)
まだまだ、夫が料理や洗濯することがより身近で一般的ではないようですね。
このようなCMが、話題にならないようなあたりまえの社会がやってくることを
願うばかりです。
【フェミ系 その5】
◇気になるCM◇
こんばんは!ウインターベルです。昨日TV東京系で夜23時から放映されて
いる「WBS」をみたら洗剤「ボールド」が取り上げられていました。特にそ
のマーケティング戦略に焦点をあてていて、洗剤にしては異色なCMに関して
も触れていましたが、私もそのCMが気になっていたんです。
結構流れているのでみた事のある方も多いと思いますが、内容を簡単に書く
と以下のような感じです。
<出演者:さわやか青年とスポーツマン系男性達>
スポーツマン系男性「このシャツ柔らかいな、お前柔らかくなるやつ使っただ
ろ?」
爽やか青年 「使ってないっすよ、洗剤だけですよ」
スポーツマン系男性「洗剤だけでこんなに柔らかくなるのか?」
爽やか青年 「なるんですよ、あれなら!」
-------------------カメラが「ボールド」を映し出す---------------
とこんな感じの内容で、つまり普通の洗剤の中に柔軟剤も入っている事を強調し
ているのですが、異色なのはキャストで、通常主婦やそれに近い人が出演する事
が多いのに、このCMでは全員男性・・・(^_^.)
むさ苦しい?ともいえますが、このように爽やか青年を出演させたりすれば何と
かなるのでは?と思います。このCMの波及効果が、洗剤にとどまらず他の生活
用品のCMにも波及する事をちょっと期待したりしています。
例えば「ダブ」のCMに素人の土木作業員が出演したり・・・
そんな事は実現しないかな(笑)
【ミックス系 その1】
10/8武蔵vsガオレンジャー
洗濯洗剤「Bold」で、ラガーマン扮する武蔵がスクラム組んでオサワリする
CMに狙っているなと思ってはいたが、お相手がタマテツこと玉山鉄二(ガオシ
ルバー)だとわかったとき「狙いすぎや!」とテレビの前で叫んでしまった。
映像内容といい。キャスティングといい。このCMを作った人は、昨今の主婦層
の世情をよほど理解しているのか、単なるヤオイ好きなのかどっちだ?
しかし武蔵がホモ役を快諾したのかわからないが、初CMの売り出しとしては大
成功なんじゃないの?
【ミックス系 その2】
2002/12/25 (水) タマテツのボールド
■いつも書こうと思いながら忘れていたがP&Gのボールドという洗濯用洗剤の
テレビCMがキモくてバカで好き。こういうCMです。これはラグビー編だけど、
最近は工事現場編をやっている。
これまで洗剤のCMってたいてい爽やかな奥様が陽光まぶしいベランダで真っ白
なシーツを干したり、奥様の愛らしいお子様が汚してしまったブラウスをのシミ
がウソのように消えるっていう方向でしたね。
今回のボールドは真っ白な爽やかさとまぶしい陽光は残したまま、好青年のはじ
ける青春を付加し、一方では奥様を徹底的に排除した作り。好青年のはじける青
春が当たってるかどうか、もっと深読みするとかなりのヘンタイCMだしな。。。
奥様狙い撃ちだ。
汚すのは家族で洗濯は奥様っていうウソくさいCMには徐々に違和感が出てきた
のか、CMでも旦那さんの手洗いとか旦那さんの風呂洗いとか旦那と奥さん二人
で大掃除という流れになってきていた。しかし旦那さんが登場してもウソくささ
に拍車がかかるばかりでかえって虚しいと感じていた現実の奥様たちの心をぐっ
と掴むために、ボールドはガオレンジャーのガオシルバー役タマテツこと玉山鉄
二を仕掛けてきてるのだ(詳しくはリンク先を読んでね)。やっぱり狙い撃ちだ
ね。侮れません。
【やおい系】
2003年03月17日(月)
>「ボールド」のCMの洗濯係り、かなり良いです!今日はボールドで初洗濯して
みました♪
あのワザとらしいCMたまりませんよねボールド。ちょっとホモっぽいし。武蔵
にやられてそう。
2003年03月18日(火)
>ボールドの青年、ちょっとひるんだ言い方で「洗剤だけっすよ」かなり。。い
いです。
萌え!なんですね。武蔵には萌えませんか?
http://purin.milkcafe.to/sd_diary_ume/200303b.html
【【ゲイ系 その1】
ところで。P&G Japanの洗剤「ボールド」のテレヴィCMについて以前一度書い
たことがある。それを先ずは引用しておこうか。「P&Gの洗剤「ボールド」のテ
レヴィCMでは太いラグビー選手が対戦相手の細い男前の選手の真白に洗われた
制服の柔らかな肌触りを悦んで最後には抱きついて胸まで揉んでいたりする」。
しかもさらにその後を見ていると最終場面では真っ白い制服を脱がされて裸にさ
れている選手もいたりして、
まさしく、世にも淫らな変態CMであると評するのほかない。現在最も面白いCM
であると断言してよい。それで、このCMについて調べてみたところP&G Japan
公式サイト中「あの製品のあんな話・こんな話」の頁のバックナンバーに当該CM
に関する解説あるのを見出した(http://jp.pg.com/story/s200208/p_03.htm)。 驚いた。あの、白い服を触られ胸まで揉まれていた美形の男は「ガオレンジャーで
人気のタマテツ」玉山鉄二だったのか。しかも彼の胸を揉んでいた敵側の太い男は
K-1選手の武蔵だったのか。驚いた。なお、序に調べてみたところ玉山鉄二は「美
悪の華」とかいう三巻のVシネマに主演していて、その中で彼は全裸を披露し、何
人もの女たちとの「ファックシーン」を繰り広げているとのこと。そうか、玉山鉄
二というのは云わば男子版「セクシーアイドル」だったわけなのだ。先のフジテレ
ビ系「笑っていいとも!秋の祭典大スペシャル」での彼を見る限り単に明るい笑顔
の魅力的な健康的な超美形の男子としか見えなかったが、実はとてつもなく性的な
肉体的な、「セクシー」な世界の住人だったわけだ。そしてそのように考えるなら、
あの洗剤「ボールド」の世にも淫らな変態CMにおける、さわやかにも官能的な演技
には納得ゆくというものだ。
【ゲイ系 その2】
こいつのCM第2段みました?
ラグビー偏に続いての登場はガテン偏。
どう考えったってホモ受けを狙ったシチュエーション。
CMプロデューサーを疑わずにはいられないその絵作り。
大体、昔から、洗濯洗剤のCMの絵というのは決まっていた。
なぜか雨の日ばかり外で遊ぶのが好きな息子、
口がゆるいのが、注意散漫なのか、よくミートソースをこぼす娘、
そしてそれを叱ることなく、汚れた服を洗濯機に放り込む、寛容だかしつけに無
関心なのか分からないが美人な新妻。
その家庭にはシーツやシャツなど、とにかく白い色のモノが溢れ、新妻は毎日洗濯、
嘘のように広い庭に干す。
夫は単身赴任なのか、離婚済みなのか、ほとんどの場合登場しない。
(柔軟材や部分汚れ洗剤などのCMにはなぜか登場)
主演はいつも(性格は悪いけど)お嫁さんにしたい芸能人候補の女性だった。
しかし、このボールドのCMときたらどうだろう。
主演は若い男(いい男)。
女は一切登場しない。
イケメン以外の男はみんなむさい(ホモうけバッチリ)
そしてラガーマン、ガテン職人(体専、マッチョ系好きにはたまらない)。
ありえない。(俺はDAISUKI)
エアタッチファンデーション以来久々に「今までの常識をくつがえす」って言葉
での形容ピッタリな絵だ。
まぁ第一弾は許しましょう。
「こんなCMも面白いんじゃないか」って製作会社や宣伝部がノンケなのにこの
CMを作るの。
もしかしたら田島陽子センセが「家事は女だけの仕事じゃない!」ってP&Gに
吠えたのかもしんないし。
でも第2段がコレでしょー。
ノンケじゃねーな!
ぷんぷんとホモくさい匂いがただよってきました。
しかし、男を主演にした狙いはあっているような気がする。
洗濯洗剤を買うのは主婦がメイン。
主婦と言えば夫という存在がありながら仮面ライダーに恋してしまったり、
昼間っからお米屋さんと情事にふけってしますような淫乱な生き物。
そんな生き物だからこそ、洗剤なんてたいして洗浄力には差はないんだから主婦
は男を取る。
東ちづるだろうが、鷲尾いさこだろうが、
シミ分解酵素だろうが、柔らか仕上げだろうが
雄汁が溢れんばかりに若い男を取るに決まっている。
そこにだ、洗剤にこだわりのなかったホモのマーケットが加わる。
なんとおそろしく計算し尽くされたCMではないだろうか。
単なるホモCM製作者が自分の趣味で作ったのではなく
もしかしたらマーケティングにも精通した敏腕プロデューサー(でもホモ)が
コレに携わっているのかもしれない。
じゃー第3段は俺を使ってください。
シチュエーションはハッテンバのシーツ洗濯のアルバイト。
笑顔で言いますよ〜
「シーツにこびりついたイカ臭いすっきり!」
なんて・・・・・・。
ダメ?
【ホモフォビック系 その1】
柔軟効果がある洗剤ボールドのCMが面白い。
今まで、洗剤や柔軟剤のCMと言えば「お母さんと白い衣類と子供」が定番
であった。お母さんと子供が白い衣類を干している風景、風呂上りのタオルが
柔らかいと言って子供が喜ぶ風景等々。
だが、ボールドのCMは違う。出演者はムサ苦しい現場のおっちゃん達。
そのおっちゃん達が白いシャツを着て、白いタオルで汗をぬぐい、サワヤ
カ(?)にスローモーションで微笑むのである。しかも、ユンボに乗りながら。
今までの洗剤CMと一線を画す、画期的なCMである(笑)。
ただ、面白いとは思うのだが、ムサ苦しい男が出てくるCMはあまり見たく
ないのも事実である。なので、他の洗剤のCMが、ボールドの真似をしないで
欲しいとも思う今日この頃なのである。
(2003/06/15 01:44 JST)
http://homepage3.nifty.com/taware_zoushi/etc/069.htm
【ホモフォビック系 その2】
☆「ホントに洗剤だけかよ?」と男に迫る男 (9/22)
P&Gの洗剤「ボールド」のCM。ラグビーの試合を舞台にしている。武蔵
と玉山鉄二は相手チーム同士。
スクラムを組む前、関西弁交じりで威圧する武蔵。「おい、お前らのユニフ
ォーム、ずいぶん白いなぁ!」
スクラムを組んだ後、武蔵「それにこの肌触り、柔軟材も使ってんだろ!」
玉鉄「使ってねぇよ!!洗剤だけだよ!」
何だか怪しい手つきで肌触りを確かめ、武蔵「洗剤だけで、柔らかくなるの
か?」玉鉄「なるんだよぉ!」
商品説明の後、武蔵が思いっきり玉鉄に後ろからタックルばりに抱きつき、
武蔵「ホントに洗剤だけかよォ〜?」
…たまらず玉鉄の叫び声。「うぅぁぁああ〜〜〜!」
「男が男に迫る」という設定…正直、失笑するしかなかった。「インパク
ト=気持ち悪さ」を思いっきり履き違えたCM、こんなので売上げ伸ばすつ
もりかと疑問に思ってしまった。]]>
『デリダ論』(G. C. スピヴァク)141-152頁
http://kimamatsum.exblog.jp/4864979/
2006-05-31T05:32:00+09:00
2006-05-31T05:44:39+09:00
2006-05-31T05:32:00+09:00
kimamatsumo
レジュメ/ノート
141
フーコーは精神分析を、狂気についての理性の側のモノローグと[誤]解していた。
デリダはこれに抗して精神分析を擁護する。
錯乱としての狂気の概念の解体。
そうした解体にむけての先導者、ラカン。
正常な精神と異常な精神の質的差異を否定したフロイト。
自我こそ精神の主要な決定要素であるというドグマの拒絶。
142
フロイトは、言語性を前意識より深いところには措定せず、「無意識」の形而上学的他者性を保護 した。[ラカンによれば、無意識は「言語として」構成されている。]
143
ラカンの言説における「真理」の場所。
145
フロイトは精神に住まう根源的他者性としての無意識に「形而上学的な名前」を与えた。ラカンは無意識に言語の構造を与えたにもかかわらず、無意識を証明と「真理」の座にしてしまった。
「無意識の真の主体」、「原因」としての無意識の「真理」。
主体の症候の歪められた言表行為と、無意識の真理の言表へと解釈[還元]する。
146
「真理を告げる嘘」
デリダは、真理はフィクションによって構成されていると見るのに対し、ラカンはフィクションを真理への 手がかりとして使用する。
真理/現実
フィクション/現実
147
超越論的シニフィアン 意味に対する語の優位=超越への願望の満足
148
(ラカンの)シニフィアンは特異で分割不可能。「理念」に伝統的に与えられてきた固有性と不可侵の現前性を持つ。
主人の位置を占めるシニフィアン;ファロス。
149
散種;正確で制御された多様牲ではなく、つねに異なり、つねに遅延された意味の増殖。
150
去勢、すなわちファロス的権威による監督の欠如が、「作者」や「書物」を 「テクスト」に変容させる。
151
hymen 婚姻、処女膜
マジック・メモ。意味形成の「具体的表象」の中に性的差異を巻き込む。
処女膜の中への散種。
所有者的な解釈学ではない、戯れに散種する解釈の身ぶりは、テクストという処女膜をつねに破る と同時に決して破らない。
152
性的差異の混乱
テクスト性に絡まれた脆弱な自己]]>
『ラカンを読む』ジェーン・ギャロップ(第3回)
http://kimamatsum.exblog.jp/4857830/
2006-05-30T19:00:00+09:00
2006-05-30T19:10:01+09:00
2006-05-30T19:00:48+09:00
kimamatsumo
レジュメ/ノート
2 他者としてのアメリカ
63
「ローマ報告の読みは行なわない」
64
「遡及的」
65
「まだアメリカに向かって語っている」「『アメリカ的な生活様式』に反対する」
『エクリ』のうちなるアメリカ語の翻訳拒否
66
ラカンはアメリカを同化すまいとし、アメリカはラカンを拒否する
→同化、吸収の拒否は理解の可能性?
翻訳の拒否は、シニフィアンの保持、シニフィエへ還元しないこと。
真理は心理の中にではなく、文字の中にこそ見出せる。
ラカンとアメリカが翻訳を拒否しあうため、シニフィアンの物質性はまだ全面的には隠されていない→読まれる可能性。
フロイトの発言はフロイトに送り返された。アメリカはそれをペストととついに気がつかぬまま 同化する。自由の女神。フランス。
"Give me your tired, your poor,/Your huddled masses yearning to breath free,/The wretched refuse of your teeming shore. /Send these, the homeless, tempest-tost to me, /I lift my lamp beside the golden door!"
67 フロイトの発言は自信過剰のために、未開封の手紙のように「彼に送り返される」いまだ読まれていないletter
フロイトに対する認識の欠如、抵抗の欠如。フロイトを同化し、精神分析をアメリカ的にする。
68
フランスの中にあるアメリカ(自由の女神の複製)/アメリカの中にあるフランス(仏文学科)
ラカンのフランス語テクスト内の、内なる植民地としてのアメリカ語/フランス語のアメリカ語への翻訳を拒否する、アメリカのフランス文学科。
鏡像は同一物。反対、対立、敵対性は同一化作用の一部であり、敵対者はアルター・エゴの一つの形。ラカンは自己とそのような鏡像とのあいだの関係を「想像的」と呼ぶ。
「想像界」とは、鏡の働きによって、間主観的な構造がすべて隠蔽される領域である。
それに敵対する「象徴界」は、言語、社会的交換、根源的な間主観性。
69
想像界と象徴界の逆説。
想像的な読みと象徴的な読み。想像界と象徴界、分身と鏡の関係の検討。
70
この二者を明確なものの間の対立と見なすのは想像的な読み。
象徴界へ至る道は想像界の中にある。
想像界を避けたのでは象徴界へ至れない。
想像界はイマーゴでできている。理解とは投射的なもの。イマーゴが知覚を歪める。他人との関係の中にあるイマーゴを認めること。主体がイマーゴを、投射作用を構造化するものとして理解することこそ重要。
71
自我心理学の想像界の泥沼。自我こそがイマーゴ。被分析者のイマーゴを分析者のそれに似せる。
自我心理学は鏡(像)にとどまり、象徴界に達しえない。
しかし、良い分析は、想像界を避けたり鏡を非難したりはしない。
分析者は被分析者のための鏡になるべき。鏡像にではなく。精神分析は、自分に似たものとか分身との出会いではなく、鏡との出会い。
72
象徴界にとどまる。像ではなく、鏡そのものを見る。
分析者に自分の分身を見てしまう。自我とアルター・エゴ。転移が妨害され、イマーゴの出現妨げる。投射されているものが実在に見える。
73
分身の「手におえない不安」。
74
フレームと像、鏡と似姿をどうやったら見分けられるか。
「手におえない」のは、不安が誰の所有物でもないこと。
75
分析者/ラカンは不安に動じないとラカン本人が推定しているとデリダは考えている。デリダと シェリダンは意味の明快さを与え、分身を避けようとしていると言えなくもない。
on /投射する側 imagine/イマーゴ 「読者の投射を写す表面」
76
分析者が「何も知らない」としても、被分析者は投射し、転移をひき起こす。
77
再び「翻訳」へ
翻訳家は分身。翻訳の「想像界」を超えること。
78
デリダの批判。デュパンと語り手は分身。一人のフランス人と一人のアメリカ人の同体関係。
フランス-アメリカ関係。ボードレールとポオ。
「悪い翻訳」翻訳/歪み
79
翻訳/鏡として認識する機会を逸し、翻訳にとどまる。
80
メールマンのPoe-Pourri 「増幅する鏡の戯れ」合わせ鏡。
ポオはフランス人のイマーゴを映し出しているのではなく、自分自身のイマーゴをフランス人に投射し、それをフランス人が受容している。
81
メールマンによるラカンの持ち上げ→ポオのフランスびいきの反復。しかしそのことに気づいている。ラカンのポオ解釈が、ラカンのポオ解釈の落し穴を避けるための最良の手引き。
82
落し穴と手引きの見分け方。masteryの幻想を生むのは構造である。しかし、ラカンの優越性を想像的に信じることから逃れられない。
83
ポオの妄想に陥りつつある(しかし、それを妄想として理解している)われわれ。
84
ラカン=デュパンという妄想。
85
デュパン=精神分析家 「自明にすぎる」
86
「自己」が明らかにされない語り手。語り手は「何もつけ加えない」 「均質的で、透明」な語り手。「滑らかな表面をしたきれいな鏡」
分析者とは誰か。デュパン、と答えるのは「自明にすぎる」。より適切なのは、中立的でほとんど自己をもたないアメリカ人の語り手のほう。
分析は想像的な効果を生みだすが、分析の目標は、何がそれらの効果を構造化しているのかを理解すること。
87
「知っていると想定されている主体」
ポオの語り手と一体化している私。「私が知っていると彼が想定していると想定している」私は、自分を彼と一体視している。
88
デュパンとアメリカの友人とのあいだの対話をひき受けること。つけ加えることなしに。
3 どこから始めるか
97
初期の著作を、のちのラカンの教えを考慮に入れて読んでいる。
時間順の配列を無視することの奨励。学生たちの幻想と、鏡像段階におけるファンタズムとの間の類似。ラカンのテクストはファンタズムを引き起こす鏡像
として機能している。ラカンのテクストに対する転移の構造。
99
鏡像段階が、自己の歴史における転換期であると同時に、その自己の起源、自己が構成される瞬間でもあるとすれば、それに先行するものは?
100
パルミエ 寸断された身体の苦悩。
ラプランシュとポンタリス 鏡像段階が、寸断された身体の幻想を遡及的に生み出す。鏡の反対側には何もない。
101
先行するものの起源。遡及による過去。
115
「フロイトへの回帰」 ラカンの教えの遡及効果。]]>
『同性愛の百年間』
http://kimamatsum.exblog.jp/4709451/
2006-05-18T01:46:00+09:00
2006-05-18T17:27:30+09:00
2006-05-18T01:46:01+09:00
kimamatsumo
今後の予定とか思いつきとか
こういうのって、どうしても相手以上のレヴェルへは行けないんで、結構徒労感が残ります。
そうではなく、もっと基本的なところを押えておくべきかなという気がしてきました。これも一種のリアクション――ジェンダーフリー・バッシャーに対するのではなく、ある種のフェミニストに対する――ですが。
タイトルに載せた本は、今からたった十一年前に翻訳が出ていますが、このときはまだsexualityという言葉はそのままカタカナに訳されてはいません。sexuality―「性的特質」という意味にひろがりがあることを、訳者が苦心して日本語の文章に定着しようとした跡が見られます。
取り上げるとしたら、本当は原文にあたりたいところです。
もともとこの本自体、性的指向で人間を分ける考え方がこの百年のものでしかないと言っているものですが、セックス、ジェンダー、セクシュアリティの三位一体が日本で広まったのも、ここ十年ほどのことでしかありません。それを忘れ去って(それ以前にとどまっているバッシャーはむろん困りものですが)、ジェンダーとセクシュアリティは無前提に別のもので、知識のない者がそれを混同するのだと思いがちなナイーヴな人々も困ったものです。]]>
よくある質問
http://kimamatsum.exblog.jp/4273647/
2006-03-18T03:53:56+09:00
2006-03-18T03:53:56+09:00
2006-03-18T03:53:56+09:00
kimamatsumo
最新の読書会
▲続きます。
■次の読書会はいつですか?
▲未定です。企画歓迎。]]>
2006年
http://kimamatsum.exblog.jp/4176258/
2006-02-20T09:53:09+09:00
2006-02-20T09:59:39+09:00
2006-02-20T09:53:09+09:00
kimamatsumo
読書会の歴史
特集 女と男の新視点 より
1)【対論】「生物の性差、ヒトの性差」 田中富久子×長谷川眞理子
2)「性差をどう考えるか」 赤川学
1月22日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 参加者10人]]>
再開します
http://kimamatsum.exblog.jp/4041227/
2006-01-17T11:54:48+09:00
2006-02-07T18:16:12+09:00
2006-01-17T11:54:48+09:00
kimamatsumo
最新の読書会
○場所 銀座区民館3号室
中央区銀座4-13―17
(歌舞伎座向かって右、文明堂横を入り、風林火山の手前)
東銀座駅(東京地下鉄日比谷線/都営地下鉄浅草線)下車すぐ
地下鉄銀座駅、JR有楽町駅(ちょっと遠い)からも歩いて来られます
地図はここ
○参加費(場所代+レジュメ代) 300円以内
★取り上げるテクスト
季刊誌「大航海」2006 No.57(新書館刊、最新号)
特集 女と男の新視点 より
1)【対論】「生物の性差、ヒトの性差」 田中富久子×長谷川眞理子
2)「性差をどう考えるか」 赤川学
・それぞれに発表者がつき、その後はフリートークになります。
・21時以降は新年会に移行
★参加ご希望の方、ご質問等おありの方は、読書会@hotmail.comへ、漢字をローマ字に直してメール下さい。申し込まなくても参加できますが、前もって連絡いただけると嬉しいです。]]>
フロイト・ノート(あるいはフロイト 対 上野?)
http://kimamatsum.exblog.jp/3326848/
2005-08-19T16:55:57+09:00
2006-01-29T08:58:59+09:00
2005-08-19T16:55:45+09:00
kimamatsumo
レジュメ/ノート
中傷
■フロイトに対する誤解の一例としての、上野千鶴子「差異の政治学」
「性差」が、社会的・文化的・歴史的につくられるものであるなら、それは「宿命」とは違って、変えることができる。→フェミニストであるための第一の条件は、この問いに対して「性差は育ちの結果である。」と答えるところから始まった。→フェミニズムが第一に対抗しなければならない相手は、性差を「解剖学的宿命(“Anatomy is destiny”」とみなすフロイト的な心理学説であった。→[「フロイトの精神分析理論」]によれば、性差は生まれ落ちたときにペニスがあるかないかで決定的に決まる。(以上、「差異の政治学」より。以下、■を付したのは鈴木の見解)
○フロイトは「生物学的決定論」者か?(→参考)
生理的、化学的な決定論を排する(354)
リビドーは男性的なものである(一元論)
男/女という概念を本質的なものとしない(040)。
ある結果を単一な原因に帰さない。
■人間においては「遺伝子やホルモンが性差を決定する」のではない、「遺伝子やホルモンが考える、のではなく、言語が考える」(「差異の政治学」P.10)という主張は、フロイトの考え方と矛盾しない。
■形態的な違いをどう意味づけるか。(違うと認識すること自体、すでに意味づけである。)
■フロイトはある意味づけの仕方を記述している(だけ)。
「エディプス・コンプレックスの崩壊」
(301-302)男の子は、能動的な方法で母親を愛するか、さもなければ自分が母親の立場になって、受動的に父親に愛されることを願う。しかし女になるとはペニスを失うことであるために、ペニスへのナルシシズム的な関心が勝利を収め、男の子の自我はエディプス・コンプレックスから目を背ける。超自我は父親からの厳格な性格を受け継ぐ。「性器は麻痺し、その機能は発揮できなくなる。これによって性の潜在期が始まる、そして少年の性的な発達は中断される」(303) ここで抑圧されているのは、男が男に対して受動的になること。
(304-305)「男女の形態学的な差異は、心的な発展の差異として表現されざるをえない」。「解剖学的な性差は「一つの運命」なのである」。ペニスへの願望から赤子に対する願望へ。「ペニスをもちたいという願望と、赤子を産みたいという願望は、無意識のうちにしっかりと根を下ろし、成長してから女性が性的な役割を果たすようになる準備をする」
■以上からわかるように、「男のようになろうとして、自分の持てなかったペニスを羨望している」女性を治療するためにクリトリス切除が行なわれた(差異の政治学P.5)という説明は誤りである。フロイトとクリトリス切除には直接の関係がないのみならず、ペニス羨望こそが女性性をはぐくむのだから(そう主張するほどにフロイトが男根中心的だとも言える)。
「解剖学的な差異の心的な帰結」
(313)少年の両性性。能動的なものと受動的なもの。父親から愛される、少年の女性的なポジション。[「終わりある分析と終わりなき分析」でフロイトは、女性におけるペニス羨望と男性における「他の男性に対する女性的な態度」を等価なものとしていた。]
(316-317)女の子のエディプス・コンプレックス
フロイトは女の子の男根期のほとんど最初の出来事として、男の子がペニスをもっていることの発見によるペニス羨望(「クリトリスがペニスよりも劣っているという発見」(321))を想定する。その結果、以下のものが生じる。
1)劣等感、女性に対する男性の蔑視の共有、女よりも優れた存在である男性と同等になろうとすること。
2)男の子(より享楽を得ている者)に対する嫉妬。叩かれる子供=愛撫される子供=クリトリス。男になって叩かれ=愛撫されたいという女の子の願望。
3)愛情の対象としての母親との関係が弱まること。
4)「クリトリスにおけるマスターべーションは男性的な営みであり」、「ペニス羨望が発生した直後に、オナニーに抵抗する強い〈流れ〉が生まれる」。「少女はオナニーの衝動から解放されるためんに、この時期にもその後の人生においても、あらゆる努力をする」。「ペニス羨望と結びついたナルシシズム的な屈辱感」。
(323)ペニス=赤子へ。「その目的で」父親を対象とする。■完全に生殖中心の説明。
(325)ペニスが「異例なほど高いナルシシズム的な備給をうけているのは、種の保存に役立つという器質的な意味による」。
「女性の性愛について」
少女はなぜ愛情の対象を母親から父親へ変えるか、
前エディプス期の発見。
(335-336)クリトリスから膣への移行。しかし、「女性における男性的な性器であるクリトリス」は「本来の女性的な時期になっても機能を維持する」。
「こうした女性の特殊性が、生物学的にどのような根拠をもつものであるかは、不明である、これに目的論的な意図を想定するのは、さらに困難である」。■生物学的には根拠不明のクリトリスは、ペニスへのナルシシズム的備給に関しては種の保存という目的論的な意味を主張したフロイトを、ここでは途惑わせている。
去勢されているという事態に対して女性に与えられた三つの道
1. 性愛の拒否
2. 男性性コンプレックス
3. 父親を対象としたエディプス・コンプレックス
「男性と女性では、エディプス・コンプレックスと去勢コンプレックスが対立した構造になっている」
男性ではエディプス・コンプレックスと去勢コンプレックスは両立せず(エディプス・コンプレックスの崩壊)、女性では去勢コンプレックスゆえにエディプス・コンプレックスが生まれる。
【note】
■生殖的/性的
ペニスの挿入に焦点化された男根中心主義。
異性間性交をスタンダードとした意味づけである。
クリトリスから膣へ。
愛情の対象を母から父へ変える。
異性間性交の秩序の中で「女」という位置を与えられる。
たとえフロイトを知らなくても、今なおペニス羨望/ペニス=赤ん坊という図式下にある。
小さい動物はすでに交尾し、人間の子供はセクシュアリティを産み出す。(レオ・ベルサーニ)
どうして人間が性交するようになるかという説明。
子供は生殖しない。
「人間の性は不能ではじまる」(岸田秀)わけではない。
はじめからjouirできるのだから。
(参考)生物学的決定論について
ICIDH2批判−障害の生物学的決定論(物象化)批判 (ウェブ・サイト arvis.comより)
三村 洋明
さて、ここで、ちょっと別の観点から、障害の概念をとらえかえしてみます。それは、最近生み出されている新しい障害概念です。もうだいぶ前からですが、学習障害(LD)と言う新しい障害概念が生み出されました。以前は、単に勉強の遅れる子どもと言う規定だけから、何か脳の中に障害があるのではないかとして、その医学的・生物学的原因らしきものを探ろうという動きが出ています。つい最近になって、注意欠陥多動性障害(ADHD)なる新しい障害概念も出されて、同様の動きが出ています。それから障害者問題から若干ずれるのですが、性差別と架橋する概念として性同一性障害なる言葉も生まれ、これも、医学的生物学的差異を見つけ出そうと言う道筋を辿ろうとしています。
何も新しい障害概念だけではありません。自閉症や吃音、それに精神障害においても、素因論的探求−脳の中に障害を見出そうという努力が最近頓に盛んになってきています。特に吃音に関しては、そもそも、吃音とは器質性の障害ではないと言う規定そのものを踏み外しての論理矛盾的探求であることを指摘できます。これらの素因論的探求が障害者サイドからなされることに関しては、「自己責任」の回避という内容をもっているのですが、努力義務という抑圧型の差別から、排除型の差別に「逆戻り」するという意味しかもたらしません。]]>
今後の予定
http://kimamatsum.exblog.jp/3326117/
2005-08-19T13:14:37+09:00
2005-08-19T13:14:24+09:00
2005-08-19T13:14:24+09:00
kimamatsumo
今後の予定とか思いつきとか
2005
http://kimamatsum.exblog.jp/1817802/
2005-01-24T18:19:24+09:00
2005-08-08T00:16:04+09:00
2005-01-24T18:18:43+09:00
kimamatsumo
読書会の歴史
・第1回「序文」
1月22日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 参加者11人
・第2回(残り)
2月26日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 参加者11人
●スピヴァク『デリダ論—「グラマトロジーについて」英訳版序文
平凡社ライブラリー
・第1回 第1節まで
4月2日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 参加者4人
・第2回 第2節
6月18日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 参加者8人
・第3回 第3節
8月6日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 参加者6人
]]>
2004
http://kimamatsum.exblog.jp/696770/
2004-10-25T21:53:10+09:00
2004-12-12T19:56:18+09:00
2004-10-25T21:52:05+09:00
kimamatsumo
読書会の歴史
・第1回「女性の性愛について」
2004年1月31日(土)18:00〜21:00 LOUD 参加者8人
・第2回「ナルシシズム入門」
2004年2月15日(日)18:00〜21:00 LOUD 8人
●〈ヴィジュアル版〉読書会 「私の見つけた○○表象」
2004年3月20日(土)18:00〜21:00
文京区男女平等センター 研修室C 7人
●『“ポスト”フェミニズム』
・第1回「なぜマルクスとフロイトは、構築主義者ではないのか」田崎英明
2004年4月10日(土)18:00〜21:00
文京区男女平等センター 会議室 12人
『“ポスト”フェミニズム』
・第2回「バックラッシュの政治と暴力」土佐弘之/「ネオリベラリズムとフェミニズム」千田有紀
2004年5月15日(土)18:00〜21:00
文京区男女平等センター 研修室C 7人
●ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』岩波書店
・第1回 序の素材
2004年6月19日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 3号室 9人
・第2回 1章
2004年7月24日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 3号室 7人
・第3回 2、3章
2004年8月21日(土)18:00〜21:00 文京区男女平等センター 5人
・第4回 4、5章
2004年10月2日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 3号室 7人
・第5回 6、7章
2004年11月20日(土)18:00〜21:00 銀座区民館 3号室 5人
●現代思想12月号 〈緊急特集 ジャック・デリダ〉
湯浅博雄「ジャック・デリダの〈痕跡〉に即して」を中心に
2004年12月11日(土)18:00〜21:00
文京区男女平等センター 会議室 7人]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/